同じシワでも違う人生

 

鷲田清一さん著『普通をだれも教えてくれない』を読んでいるのだが、その一部でケータイになじめないという文章がある。いわく、ケータイはタバコにそっくりで害があるというやうなことが書かれている(害という表現は自分が勝手につけた単語でありますので違っていたらすみません)

 

 

だいたい己は本を読むとき電車の中が多いのであるが、だいたい電車の中では何もしていない人の方が少ない。

いつぞやか、座席にいる皆がスマートフォンを見ている姿に訝しげな、気味の悪い、不思議な気分になることがあったけれど新しい文化が誕生する度に対象は変わっていくのだろうけれどもです

 

電車でなにもしないということが0だとすれば、電車の中で話すということが1になって、話すことが禁止になれば読書をすることが2になって、そこで携帯音楽が誕生して3になって、音楽ばがり聴いている人たちをみればそれが不気味になって、今度はケータイが3になって、、、の繰り返しなんやろか

 

 

 

飲食禁止と表示されているわけではないが、飲食する人を電車で見かけると不愉快な気持ちになるというのはどうしてなんだろう。おしゃべりが大きい人たちがいて注意したくなるのはどうしてなんだろう。だって電車には声の声量に関して注意書きもないし、一緒にいるのに会話がない車内というのも可笑しな現象でもあるがや

 

専門家でもないでありますが単純にこういう疑問に興味があるので、まぁいいかと終わらさずにせっかくなので今日のブログの記事にします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鷲田さんとしてはケータイとタバコはそっくりだが、唯一違う点は姿が美しくないということであった。

タバコを吸う姿がかっこよく見えても、ケータイをかっこよくかけている人は少ないということらしい。

(自分は電車の中で本を読んでいるので、電車の中で例えるならばスマートフォンをいじっている姿で想像したがや)

 

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個人的には本を読んでいる人にはなぜか不気味な感情は湧かない。

(ただし満員電車で本を読んでいる人とスマートフォンをいじっている人には程度は違えど不愉快な気持ちになるけれどもです)

 

 

 

 

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今の例をイラストで表すとこうなるが、同じ眉間のシワで険しい表情でもなんか本を読んでいる人の方が不気味さはなし。むしろ自分には賢く見えるがや

かといってスマートフォンを見ている人が賢くないというわけではない。

むしろスマートフォンの方が本の何十倍も情報が広がっているはずなのになんでイイ感じに映えないんやろか

 

 

 

と、いつもならここで思考を追いやってしまうわけだが今日は最後まで思いを巡らせて見たがや

 

スマートフォンで得ました情報は既に用意された答えだけを掻い摘んで見てるだけ

②本は読んで見たいとという関心にしたがって自らが選定している

スマートフォンの手軽さと違って本は手間がかかる(重さ、ページをめくる行為、形をくずれる恐れ)が、それを押しのけてまで知りたいという真面目な行為

 

 

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そういう無意識な偏見が己の中にあるかもしれないけれどもですが、これが己の見解でありました。

 

 

たしかテレビか本で知った情報でありますが、電車の中でお化粧する女性をなぜ不快に感じるのかということに対して専門家が「化粧をする側の彼女たちは、周りの人を景色としてしかみなしていないからです。だから 車内で、人前で、化粧ができてしまう。例えばデートで男性と待ち合わせに向かうときに化粧をする女性というのはその男性が他者であって、電車にいる人たちというのは他人であるのです。よって、景色としてみられている=人として見られていない、と私たちは感じるから不快に思うのでしょう」みたいなことを言ってはった。(己の色んな情報の記憶が織り交ざっている可能性あり)

 

 

 

 

自分は満員電車では基本めんどうなことを避けるべく、人間観察しているわけでありますがどんなに満員でもゲームしてたり本読んでたりラインでやりとりしてたりする人見かけると、できるはずのスペースがソレに夢中で見落としているなんて、なんてクールなんだって思おいますね

 

 

 

 

 

 

以上